教師紹介

スタッフ紹介
 

養哲塾のDNA

一人ひとりの個性と人格を尊重する指導方針、それが養哲塾の真髄です。能力に応じたきめ細かいクラス編成、「対話型」あてる授業などさまざまな養哲塾のシステムは、すべてこの指導方針を源泉としています。受験指導においても、当面の目標にとどまらず、もっと先を見据えた視点をどんな時にも失うことはありません。こうした養哲塾のDNAは脈々と引き継がれています。驚くことに養哲塾の講師の多くが養哲塾出身者です。この結果は意図したものではありません。養哲塾で学んだ卒業生が、大学生・大学院生となって自然に顔を出してくれるようになったことが始まりです。学業を終えて会社員・公務員・研究者となった今でも時々顔を出して講師時代を懐かしんでくれます。以下は令和2年度の養哲塾出身の講師です。

2020年DNA

 

卒業生からのメッセージ

 私自身養哲塾の卒業生でした。この塾に通い始めた時「自分のためにここまで尽くしてくれる大人」がいるのだと感じ、それに応えたくてがむしゃらに勉強しました。そして頑張ることの喜びを初めて知りました。私自身第一志望の都立高校には合格することが出来ませんでしたが、充実した高校生活3年間を送ることが出来ました。貴重な仲間やサポートしてくれる大人に出会えたのも本当に幸せでした。
 講師として働いている今は、まだまだ至らないところもありますが、子供の時に受けとったものを今度は与えられる側になれたらという気持ちで働いています。そして養哲塾の卒業生でよかったと働きながら感じています。
 本来の目的である生徒自身の成績を可能な限り上げ、希望の学校に進学できるよう全力でサポートしていけたらと強く思っていますが、結果だけではなく、個々の人生の長いスパンで考えたとき、それに向かって努力する過程から得られるものも同時に伝えられたらと願っています。

 

 人の感情とは何だろう。そんなことをずっと考えていた。
 人は一生のうち様々な感情を経験する。大好きなラーメンを食べた時の嬉しいという感情であったり、好きな人にフラれた時の悲しいという感情だったり。感情は常に私たち人間に付き纏い、そして振り回してくる厄介な代物である。このジェットコースターの中で私は、どうにかこの感情を支配したいと考えるようになった。仮に悲しみや怒りといった負の感情を抑制する一方で喜びや幸福といった正の感情を増進できれば、今より豊かな人生が送れると考えたのである。
 そのために私は「人の感情はなぜ発生するのか」という根本的な問いを考えるようになり、関連分野の書籍を読み漁っていった。因みに私は医学部生でもなければ生物選択でもないただの文系大学生である。ゆえに脳科学に関しては全くの素人であったが、感情を支配したいという欲求が私を駆り立てたのである。このようにして私が得た結論、それは「感情は脳内の神経シグナルにより発生する」というごく当たり前のものだった。しかし脳科学の素人であった私は、この結論に大変感じ入ってしまったのである。
 ここで特に私が感じ入った例として「不安」を挙げよう。人は一生で幾度となく不安に襲われ、その度に強い絶望感を経験する。この不安という感情はどのように起こるのだろう?現代脳科学の答えは以下の通りである。まず何らかのストレス要因が生じた際、脳内ではセロトニンという神経シグナルの分泌が過小になる。セロトニンは普段私たちの情動を抑制している物質であり、その欠乏は私たち人間の本能的恐怖を誘発する。これがいわゆる不安の発生プロセスであり、実際うつ病患者に投与されるSSRIという薬は、脳内セロトニン伝達の増進を通じて不安の解消を図るという。
 この部分だけ聞くとセロトニンの投与は人間を不安という感情から解放してくれるように思われる。しかしセロトニンの過剰摂取は吐き気やめまいといった症状を引き起こすため、必ずしも不安に対する万能薬ではないらしい。それでは我々はどのように感情を制御すれば良いのか?正直その絶対的な答えは分からない。なぜなら私は一介の文系大学生に過ぎないからだ。しかし「感情について知っておくこと」はその制御の鍵となるかもしれない。なぜなら人間は未知のものに対し無力感を感じる一方で既知のものに対しては支配感を感じるからだ。
 例えば私は不安を煽るような事象があった際にはいつもこう考えている。  「あ、今脳内でセロトニンが足りてないな。」
 この客観的な認知により私は不安を打ち消し、僅かながら人生の効用が高まったように思われる。まさに知は力なり、というわけだ。

 

 この文章を書いている2020年4月6日現在、世界はかつてない試練に直面している。COVID-19によって世界中で多くの人命が犠牲になり、大多数の人間が生活を制限されている。このウィルスは果たして収束するのだろうか。いままで我々が営んできた文化・経済活動は元通りになるのだろうか。社会構造そのものが大きく変わってしまうのではないだろうか。ふと考えてしまう。
 簡単には未来が見通せず、過去の成功体験が役に立たない状況を生き抜くためには、確固たる知識とそれに基づく柔軟な思考力が必要なのだとひしひしと感じる。これらは生涯をかけて磨き続けなければならない。いままでの人生を振り返ってみると、一介の中学生だった私にも、これらの能力を鍛える場は確実に存在していた。

 

生徒へのメッセージ

 生きていると、しばしば困難に直面する。

 たとえば、「汚い部屋を片付ける」という問題にはどう対処すべきだろうか。机や床にものが散在した状態から、片付けた後の整った部屋を想像するのはちょっと難しい。一気に片付けようとすると大変かもしれないが、机の上だけなら出来そうなのでやってみる。机が片付いたら、床の半分くらいは出来るんじゃないかという気になり、やってみる。半分できたなら残りも同じ要領でできるだろうとやってみる…といった具合で進めるといつの間にか片付けは終わっている。
 このように困難に直面したときは、自分が解決出来そうなレベルまで問題を切り分けるのが有効であることが多い。カレーの作り方から受験勉強の進め方まで、実に多くの問題が分割することで解決に近づく。このことを意識し出したのは、僕が高校生の頃だった。
 大事なのは、上述のような知見はある日突然降って現れたというわけではなく、日頃から多様な経験を積み重ねることによって徐々に気づいてきたということである。小さい頃から、目の前の課題に立ち向かい、考える習慣をつけておいたおかげだと思っている。ときどき「勉強して何の役に立つんですか」などと聞かれることがあるが、結局自分自身を豊かにするためなのである。

 

 社会人の私から、小学生 中学生である皆さんに伝えたいことを書こうと思います。ここに書くことは、私自身が経験したことです。役に立つ部分が少しでもあれば、選びとってくれれば良いと思います。
 私が中学1年生だった頃のことです。学校での数学の授業で、家で解いてきた宿題を答え合わせをしていました。先生が読み上げる答えを聞いて、マルバツをつけるあれです。皆さんも幾度となくやってきたことだと思います。私はこの作業がすごく嫌いでした。もう少し厳密に言えば間違えることがすごく嫌でした。だから、私は答えを書き直して丸にしてしまう生徒でした。
今思えば、すごくださくて、臆病で、くだらないプライドを守るための行動でした。腕でプリントを隠すようにして消しゴムを使ったことをよく覚えています。間違えが恥ずかしくてたまらなかったのです。周りからできると思われたかったのです。私自身もできると思いたかったのです。そして、叱られるのが怖かったのです。当然のことながら、成績は振るわず、でも宿題にはマルが付いている。はたから見たら変な生徒だったと思います。
 その癖が治らないまま私は中学2年生になります。相変わらず、成績が振るわないため塾に通うことになりました。塾に入ってすぐ、参加した授業は数学の授業でした。問題を解いて、答え合わせをします。そこで私は、恐ろしいことに気づきます。生徒の答え合わせの様子を先生が近くでみているのです。冷や汗が出ました。間違えることをみられてしまう。こんな近くでみられていては、こっそり直すことができない。できない自分を見られてしまう。叱られてしまう。そんな風に考えました。結局、マルはマル、バツはバツとして書くしかありませんでした。背を丸めて、バツが悪そうに周りを見ていると皆平然としています。私よりもよくできている人もいればそうでない人もいました。でも私以外は皆、まっすぐ座っていました。びっくりしました。そこで初めて、「もしかして間違えることは恥ずかしいことではないのかも」と思うようになりました。私にとって、衝撃の出来事でした。間違えることを私に教えてくれたのが塾でした。それ以降、マルつけでズルをすることはなくなりました。
 できないところは隠そうと思えば隠し続けることができます。誰にも知らせずに、見せずに、うまくすれば隠し通すことができます。でもできない自分を見つけてもらって、私は救われました。だから皆さんにも、恥ずかしいけど、悔しいけど、できない自分をオープンにすることをおすすめしたいです。「できない」より、「できるようになろうとしない」の方がよっぽど恥ずかしいんです。「できない」を隠してしまえば、それが「できる」に変わるチャンスを失ってしまいます。成長するチャンスを失ってしまいます。成長する人は、オープンな人だと私は思います。なんでもできる人はそもそも塾に来る必要はありません。できないことがあるからここにいるんだってことを忘れないでほしいと思います。成長するってすごく気持ちがいいです。ぜひ、皆さんにもその気持ちを味わってほしいと思います。応援しています。